初代の金巻初蔵は、当時新潟にあった菓子舗“シモジュクヤ”で修行した人物で、
香月堂の初代・藤田貞吉氏の兄弟子である。

産業の近代化により徐々に店頭販売が可能になる。
明治の初めは地主や旧家の人々への冠婚葬祭と深く結びつき受注生産することが多かった菓子屋が
原料や材料の製造から始めなければならず大変な苦労があったそうである。
当時菓子製造に必要な原材料の入手が困難であり、 土地を借り家屋と店舗は自分で建て、
菓子製造に必要な設備を最小限揃え、営業を開始した。
初代の初蔵が26歳の時、現在の古町通3番町で<金風堂>として創業。 その後、明治政府の育成政策により博覧会やコンクールが
盛んに行われるようになると、職人は味と技能を競い、
また交通の発達により金巻屋のお菓子の数々が全国に知られるようになる。
この時、最も売れたお菓子が「磯の花」だった。

「磯の花」はさいのめの落雁(らくがん)で、名刺や手ぬぐいの代わりによく利用された。
明治の末に国が主催した勧業博覧会に出品し、上位に入賞した銘菓であった。
当時の落雁は米を膨張させ砂糖をまぶし、
つなぎにもち米、アメを入れ、乾かしたものだった。
「磯の花」以外にも、店頭を飾った商品として「中花まんじゅう」と「本煉羊羹」がある。
特に「中花まんじゅう」は仏自事用の引き物によく使われた。
「本煉羊羹」は高級な贈答品として喜ばれ、
当時の金巻屋の看板商品としてよく売れたそうである。
約半世紀にわたる工事の末大河津分水は完成する。
金巻屋はこの祝菓子を依頼され、
ひと月ほどお店を閉めて総力を挙げて製造にかかった。
ようやく納入したその時のお菓子は、
「鳳瑞(ほうずい)」という、今でいうマシュマロのようなものだった。
現在地にて営業している金巻屋と縁が深いものに、 <白山神社>と<花街>がある。
明治以前より、新潟の人々と白山神社の結びつきは深いが、
金巻屋は白山神社の境内で営業していたこともあり、 特に結びつきが深かった。
昭和に入り、店舗を新築した金巻屋の歴史を物語るものに 、“金銭登録機”がある。
“金銭登録機”は現在のレジにあたるもので 、
近代的な装いの店内にひときわ目立つ存在だったそうだ。
冬に店舗の営業を再開する。
当時、世間では最中のような甘いお菓子が好まれていたそうだが
あえて金巻屋では甘さ控えめの「残月」や「羅生門」を発売。
大好評であった。

戦後しばらく続いたもの不足も終わりお客様が自由に買い物できる時代になると、
蒸物の「古琴抄」や流しものの「雪乙女」、
夏のお茶うけに「游梅」や丹波特選小豆と丹波栗のお菓子「花無心」と、
心を込めた商品を多くのお客様にお楽しみにいただけるようになる。
この頃は本店だけでなく、新潟市内のデパートやスーパーにも金巻屋の商品が並んだ。
このような背景をもとに多くの皆様から親しまれ、育てられた金巻屋。
これから、どのような姿で皆様に喜んでいただけるか考えたところ、
「ちいさなお店ではあるものの、精一杯のおもてなしと、心のこもったものをお届けしていきたい。」
という思いから四代目が店を美豆伎庵(みずきあん)と命名。

これからも美豆伎庵がそんな皆様の憩いの場になりますように。

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